ドリー・ファンク・ジュニアの全盛期が過ぎてから、プロレスは徐々に変化していく

ファンクス

アントニオ猪木VSモハメド・アリから50年目となる今年、ドリー・ファンク・ジュニアが亡くなった。

猪木VSアリは総合格闘技の歴史の中で価値ある試合だったことは間違いないが、もしも猪木がドリー・ファンク・ジュニアといつでも試合が出来る状況だったならば、猪木VSアリは行われなかっただろう。

昭和47年に新日本プロレスを旗揚げした時、猪木は超一流レスラーを呼ぶことは出来なかった。

そして当時の超一流レスラーの、代表的な存在がドリーだった。

猪木にとってのベストバウトは、昭和44年12月と昭和45年8月の、猪木VSドリーのNWA世界戦だったと思う。

ドリーへの3度目のNWAの世界ヘビー級タイトル挑戦、これが猪木ファンの夢だった。「夢」と表現しなければならないほど、それは実現不可能な事であった。

猪木VSドリーは、日本のプロレス史屈指の名勝負だった。

ドリーは猪木相手に、もちろんヒールとしてのファイトをした。しかし、いわゆるラフファイトではない。

攻めている猪木のバックを取り返す、腕を取り返す、体当たりをカニばさみで返す等々。嫌らしい返し技で、観客をイライラさせた。

ドリーはテクニックで、荒々しい悪役レスラー並みのヒールを演じた。

返し技は、猪木も得意だ。目まぐるしく攻防が入れ替わり、凄まじいグラウンドレスリングの攻防。

猪木は筋肉も関節も並外れて柔らかいが、ドリーも負けずに柔らかかった。動きだけなら、ドリーの方が柔らかかったのではないか。

初対決時、猪木が26歳、ドリーは28歳。私が本格的にプロレスに没入したのは、ヒロ・マツダVSダニー・ホッジと、猪木VSドリーだ。昭和44年、同じシリーズの試合だった。

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NWA世界ヘビー級チャンピオンは、昭和のプロレス界で一番権威のあるチャンピオンだった。

例えばバーン・ガニアのAWA、ニューヨークのWWWF、さらに例えるなら馬場のPWF、猪木のIWGPなどとは違い、NWAは加盟する複数のプロモーターたちの団体だった。

ということは、加盟するプロモーターたちのテリトリーを巡回しなければならない。

各テリトリーのエースと試合をするわけだから、いろいろなレスラーに対応しなければならない。

ニューヨークで人気だからサンマルチノがチャンピオンになったり、オーナーのガニア中心にタイトルが争われたり、というのとは訳が違ってくる。

それでなのか、NWAのチャンピオンは試合巧者のベテランが多かった。

だから28歳のドリーの登場は、NWAに新しい時代が来たというイメージだったが、ドリーのレスリングのスタイルはルー・テーズに似ていたと思う。

むしろ、正統派に戻ったという感じだった。

若いながらも、柔軟に相手レスラーに対応することが出来た。各テリトリーのエースに対して、ヒールを演じるテクニックとレスリングセンスがあった。

同世代のジャック・ブリスコ、ハーリー・レイス、弟のテリー・ファンクなどと一つの時代を作ったが、やはり中心にいたのはドリーだった。

テーズがエド・ストラングラー・ルイスの流れを汲むことを考えると、ルイスの時代⇒テーズの時代⇒ドリーの時代と大きく分けることが出来るかもしれない。

ドリーと闘えず、様々な企画に走った猪木が異種格闘技戦に出会ったのも、ひょっとしたら時代の必然だったような気がしてくる。

ドリーのスタイルは、ずっと以前からプロレスのメインストリームではない。

そして私たちは猪木の異種格闘技戦や、ハルク・ホーガンや長州力や、初代タイガーマスクなど、様々なプロレスを見てきた。

武藤敬司や小川直也あたりまでで、今は私はプロレスを見ない。

猪木VSアリから50年、ドリーよ安らかに。

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