北の富士はあるインタビューの中で、玉の海が存命だったならば、北玉時代の後に玉の海時代が来ていただろうと語っていた。
玉の海は北の富士よりも2歳年少だったし、当時の充実振りから、玉の海時代が来ていたと充分に考えられる。
次代の横綱、輪島とは一度対戦していた玉の海。さらに次の横綱となる北の湖とは、対戦することは無かった。
北の湖が新大関の昭和49年3月場所時点で、玉の海は生きていれば30歳を迎えたばかり。
翌場所、北の湖は綱取りへの足掛かりとなる2度目の優勝を果たすが、この場所中に21歳になっていた。
円熟期を迎えた30歳と、21歳の新進気鋭。
玉の海は177cm、134kg。北の湖は179cm、150kg(横綱昇進当時)。
玉の海と北の富士は、取口も性格も正反対と言われていたけれど、北の湖ともかなり違っていた。
玉の海は肩幅が広く、そのためか脇も甘く、右四つながらも左四つになることも多い。
しかし左四つでも、まったく遜色のない相撲を取る。
肩幅の広さと絶妙な胸の合わせ方で、相手力士を浮き上がらせる。
対する北の湖は、なで肩ゆえに巻替えも巧く、だいたいは自分得意の左四つの型に持っていく。
そして北の湖は前に出る馬力に相当なものがあったが、玉の海の相手を受け止める足腰の強靭さも半端なかった。
がっぷりになれば玉の海の柔らかな腰に、どんな大型力士もふわりと乗って吊り出された。
北の湖が強烈に引き付けて吊り上げれば、大概の力士は北の湖の腹の上で反り返った。
そして両力士ともにスタミナ充分、長い相撲も厭わない。たぶん左四つがっぷりの、長い相撲になったと思われる。
吊り合いになっただろうが、吊り合いならば、昭和49年あたりは、まだまだ玉の海に一日の長があっただろう。
北の湖は昭和49年1月場所で14勝1敗で初優勝を果たすが、次に14勝を上げるのは昭和51年の11月場所。ほぼ3年後のことだ。
この期間、玉の海に星を落としていれば13勝にも届かなかったことになる。
この昭和49年1月から昭和51年11月の3年間、取組は拮抗しながら、徐々に玉の海時代から輪湖時代へ移行することになっていたと思う。
北の湖は横綱昇進の年少記録を作ることは出来なかったかもしれないが、本格派四つ相撲の玉の海との対戦は、力士として多くの得るものがあったはずだ。
「もし」の世界だが、真正面からの美しくも力感に溢れた、大相撲が展開されたことだろう。



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