輪島には相撲にもプロレスにも反骨のイメージがあった、派手好きなのに

輪島

学生相撲出身初の横綱、輪島は何に付けても破格な扱いだった。

入門時は日大の宿舎で過ごし、番付を上げてからは高級マンション暮らし。

高級車を乗り回して、芸能人と交流する。

真夏の名古屋、力士たちは宿舎で蚊に悩まされている時、輪島はホテルから場所に通った。

輪島が番付を上げていった頃は、学生運動が破綻していった時代でもあった。

無精ひげを生やし、不機嫌そうな表情で背中を丸めた輪島は、何か権力に抵抗する若者にも見えた。

とにかく異端の力士だった、相撲の型も。

下手投げを得意手とし、左下手を引いて右から絞る相撲の型。

広く知られていることだが、「黄金の左」は右の絞りの強さから生まれた。

下手投げも左かいなの強さではなく、腰を支点にした独特の下手投げだった。

輪島は腰の強さも抜群で、相手力士は右腕の怪力で体を起こされ、輪島の腰を支点にして見事に転がされた。

これに対して右四つの時は、がっぷり組んでの四つ相撲で、本来は右四つの力士かと思わせるような見事な四つ身で、相撲の巧さを見せつけた。

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北の湖との「輪湖時代」の全盛は昭和51年と52年。

昭和51年は北の湖の優勝3回に対して、優勝2回ながらも年間最多勝力士となる。

昭和52年は年間最多勝こそ北の湖に譲ったが、北の湖の優勝2回に対して3回の優勝を果たす。

千秋楽の結びの一番、左四つで右上手の北の湖に、左下手で右から絞る輪島。

得意の型が同じなだけに、両雄の相撲は判で押したように同じ型になった。

同じ型だっただけに、常に熱戦の大相撲となった。

昭和53年から、北の湖よりも5歳年長の輪島は劣勢を強いられるようになる。

体勢は同じ左四つながら、北の湖の左のかいなの返しに、右で絞っていた輪島は諦めるように右の上手を引き、がっぷり四つになる場面が多くなる。

がっぷり四つになっては、輪島に勝ち目は無かった。

輪島が右で、仕方なさそうに上手廻しを引くと、館内から溜息のような声が聞こえてきた気がした。

ただでさえ北の湖がヒールだっただけに、力が衰えだした頃は、声援は圧倒的に輪島に集まった。

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輪島は、38歳でプロレスラーに転向する。

当時、プロレスファンも大相撲ファンも、歓迎よりも冷ややかという目を向けていた、と思う。

そんな中で、プロレスラーになってからの輪島の練習量は、半端なものではなかったと言われている。

大相撲では同門の二所一門の先輩に当たり、もちろんプロレスでも先輩に当たる天龍源一郎との試合は、いつも凄惨な展開となった。

天龍は輪島の顔面を蹴り上げ、あの格闘王の前田日明をして「あんな、えげつない攻撃は・・・」と言わしめた。

これは、輪島の回顧録から。

「年齢的に無理があった、プロレスへの転向は苦しかった。そんな中で天龍など数人の先輩レスラーが、『横綱』と呼んで立ててくれたので、少しでも続けられた」

天龍は大相撲では先輩ではあったが、横綱にまで上り詰めた輪島にはリスペクトがあって、輪島を光らせるための「えげつない攻撃」だったと思われる。

華やかなポジションには行けなかったが、プロレスでも体の強さ、受けの強さを見せつけ、元横綱の意地は見せた輪島。

やはり輪島には、反骨のイメージが似合っていた。

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