「最強の関脇」と呼ばれた長谷川。
左四つからの力強い上手投げと、前捌きの応酬からの、すくい投げ、巻き落とし、突き落としもあった。もちろん、寄り切りも力強かった。
均整の取れた、筋肉質の力感あふれる体で、足腰も強靭で前捌きも巧かった。長く関脇から幕内上位で活躍。休場なしでの幕内連続出場は、1024回を数える。
柏鵬時代で佐田の山や栃ノ海もいた4横綱時代で、北の富士や玉乃島(後の玉の海)や琴櫻と大関候補が目白押しの時代。
この時代に活躍し、さらに骨太の筋肉質で堂々とした取口だったことから、「最強の関脇」の双璧の琴錦から、「絶対に自分より強い」と言わしめた長谷川。
地力は申し分なく、早くから大関候補と呼ばれていた。新十両は18歳の時。
関脇で優勝した場所は、当時の大関昇進基準に充分な成績ながら、不運にも見送られた。前の場所は準優勝だったわけだし、タイミングが悪かったとしか思えない。
長谷川と言えば、北の富士との睨み合いが有名だ。なぜに、あれほど睨み合っていたのか。
長谷川と北の富士では、年齢では北の富士が3学年上。初土俵も北の富士が、3年早い。
北の富士の方が、かなりの先輩だ。
しかし、十両昇進では長谷川が一場所先。つまり関取になったのは、長谷川が先輩なのだ。大相撲では、関取になるのは、非常に大きな意味を持つ。
昔の相撲雑誌で、取的時代と思われる長谷川と北の富士が、フレンドリーに肩を組んでいる写真があった。
当時の関係性を感じさせる写真だった。完全に「タメ」、という雰囲気。
長谷川と北の富士の幕内での対戦成績は、長谷川の16勝30敗。3回に2回ぐらい負けている。
ここで、面白い記録がある。
北の富士は昭和42年3月場所で初優勝するが、昭和42年5月場所は負け越す。そこからしばらくは、10勝5敗ぐらいの場所が続いた。
そして昭和44年9月場所に準優勝、そこから連続優勝を果たして横綱に昇進する。
この昭和42年5月から昭和44年7月の14場所、言ってみれば北の富士が不調だった期間、北の富士との対戦成績は長谷川の8勝6敗と、長谷川の方が勝ち越している。
速攻の北の富士は、ガッチリと長谷川に組み止められると分が悪かった。
ところが北の富士が不調を脱すると、形勢は逆転する。
そして昭和45年3月、北の富士が新横綱の場所で、8場所連続で関脇の座にいた長谷川は負け越す。巡り合わせか?
玉の海の死により北の富士が再び不調となる昭和47年、今度は長谷川が1月場所に準優勝し、3月場所で悲願の初優勝を果たす。
巡り合わせというか、因縁というか、長谷川と北の富士の好不調の波は常に反比例した。
優勝しても大関昇進を見送られた長谷川は、次の世代、輪島や貴ノ花が躍進してきた時期でもあり、これが最後のチャンスとなった。
長谷川が定年退職する場所、退職する親方の恒例である向こう正面での解説の日、正面の解説は北の富士が担当した。
何か嬉しそうに会話をしていた場面は、昭和の大相撲ファンにとって感慨深いものがあった。
速攻相撲の展開では北の富士は長谷川を圧倒したが、がっぷり四つになると分が悪かったのは、横綱としては切ないものがあったのかもしれないと、少し思った私だった。



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