アントニオ猪木の除名処分を知ったのは、寒い冬の日の駅の売店だった

アントニオ猪木ファン、というか、猪木信者にとって、その名勝負のランキングによって、その人の猪木観、プロレス観、そして人生観も知れてしまうだろう。

カール・ゴッチ戦、ストロング小林戦、モハメド・アリ戦、などなど。

私は純粋に「名勝負」と呼ぶなら、猪木VSドリー・ファンク・ジュニアと猪木VSビル・ロビンソンのどちらかだと思う。

私がプロレスに出会うのは昭和44年だから、それ以前の猪木は知らない。

自分の家のテレビが、NHKとRKK熊本放送しか受信できなかったからだ。コンバーターというものが必要だった。

コンバーターを購入し、プロレス番組が映るようになった昭和44年の夏、最初にプロレス番組で見た外人レスラーは、ディック・ザ・ブルーザーとクラッシャー・リソワスキーだった。

そして秋になると、不気味な覆面レスラーのザ・デストロイヤーが来日する。クセが強いレスラーが続いた。

そして昭和44年を締めくくるシリーズにやって来たのが、世界最高峰、NWA世界ヘビー級チャンピオンのドリー・ファンク・ジュニアだった。

無法者レスラーや、不気味な覆面レスラーとは違う、若き世界チャンピオン。小学3年生だった私には、「世界最高峰」という言葉は響いた。

馬場よりも、猪木よりも、上に位置する「NWA」。

昭和44年12月2日の猪木VSドリーの初対決は、60分のノーフォール。昭和45年8月2日の二度目の対決は、猪木のジャーマンがドリーに決まり、1-1から時間切れの引き分け。

猪木VSドリーの、あの緊張感は凄かった。ドリーに勝てば猪木は世界チャンピオン、世界一のプロレスラーになるのかぁ・・・。

試合内容も凄かったけど、やっぱり猪木に世界チャンピオンになって欲しいと、強く思っていた小学生だった私。

そして三度目の正直、昭和46年12月9日の猪木VSドリーの三度目のNWA世界戦。昭和46年12月9日は木曜日。つまり次の日は、プロレス中継がある金曜日ということだ。

しかし小学5年生の私は、夜まで待てなかった。12月10日、スポーツ新聞を買いに、駅まで歩いた。

昭和46年、コンビニがまだ無い時代、確実にスポーツ新聞が買えるのは駅の売店だった。高鳴る気持ちを抱えて駅まで歩いた道のりを、今でも覚えている。

ドキドキして買った新聞の一面には、タイトルマッチの結果ではなく、不格好に切り抜かれた猪木のアップの写真が載っていた。

その顔写真の横には、「猪木除名」の文字。他に覚えているのは、「クーデター」の文字だったかな。

当時の私に、「除名」や「クーデター」を本当に理解することは出来なかったと思う。

ただただドキドキだったのが気が抜けて、むなしさと重苦しさに包まれたのを覚えている。

そして時代は変わり、猪木VSドリーのNWA戦を二度と見ることは無かった。本当に、三度目を見たかった。本当に。

コメント