名関脇、栃東は春日野部屋の伝統を受け継ぐ、昭和40年代を代表する技巧派力士だった。
右からの上手出し投げの切れ味は、これに匹敵する力士をまだ見たことが無いほどだ。
特にアゴの締め方と、相手を投げる角度が秀逸だった。
立合いからの速攻もあり、昭和43年9月場所の初日、初顔合わせの横綱大鵬を持ち前の速攻で一気に寄り切った相撲は記憶に残る。
この場所、5場所連続休場していた大鵬の進退が懸かる場所で、初日の完敗は大鵬ファンを青ざめさせた。
大鵬の45連勝が始まったのは、その翌日からのことだ。
大鵬戦での速攻は、右前褌を引いて左おっつけでの寄り切りであった。
そして十八番の上手出し投げは、左四つで右前廻し、右からの出し投げだった。
つまり、右でも左でも万能だったのは、前捌きが巧かった証拠だろうし、運動神経も抜群に良かったということだろう。
引き技も多彩で、かっぱじくような思い切りの良い叩き込みや、土俵の丸さを利用した引き技もあった。
そのうえ研究熱心でもあり、「大相撲ダイジェスト」のヘビーな視聴者だった。
力士たちが夜になって遊びに出て行く中で、栃東だけはスポーツ新聞や「大相撲ダイジェスト」で相撲の研究に余念がなく、付いたニックネームは「留守番」。
昭和45年1月場所、小結で10勝5敗。3度目の殊勲・技能賞のダブル受賞をしたときは、有力な大関候補となった。
直後に肝炎になり、その後も両ヒザを痛め、残念ながら大関には届かなかった。
178cmで115kg。同じ春日野部屋の先輩で、横綱にまで昇進した栃ノ海は177cmで108kgだったから、栃東も体調万全だったならばと惜しまれた。
それでも昭和47年1月場所、混戦を制して11勝4敗で優勝を果たす。
横綱玉の海とは、大関玉乃島時代の対戦成績で栃東が5勝4敗とリードしていた。
肝炎発症後に連敗し、最終的には栃東の5勝7敗となったが、大関時代から安定した相撲振りだった玉の海に対して大健闘していた。
ちなみに昭和46年9月場所14日目、玉の海生涯最後の白星は栃東戦であった。
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大関には届かなかったが、次男の二代目栃東が平成の土俵で大関を射止めた。
二代目は体重こそ150kgを超え、初代とはイメージが違うように見えるが、相撲そのものは「親子でよく似ているなぁ」と思いながら、私は見ていた。


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